026: 聞こえる
「こんばんは」
唐突に、背後から声を掛けられた。
ぎょっとして振り返れば、廊下への扉の前に青年が一人
佇んでいた。背はさして高くなく、落ち着いた色合いの和装を身に
纏っている。一歩二歩こちらに寄って照明の光の輪の中に踏み入れば、どこか人形めいた
柔和な顔立ちが照らし出された。
「お初にお目に掛かります、皇太子殿下。突然の
訪ない、申し訳ありません」
丁寧に頭を下げる動作に合わせて、耳の辺りで切り
揃えられた黒髪がさらりと揺れる。物腰も声音も柔らかく、真っ直ぐに上げられた
黒曜石の
双眸にもおよそ害意と呼べるものは見当たらない。
それでも状況の有り得なさに、殿下と呼ばれた少年は目を
瞠りながらも忙しく思考を回らせる。先刻、侵入者に声を掛けられる前、扉の開閉音どころか
蝶番の
軋む音も
衣擦れも聞いた覚えは無かった。現在の時刻は深夜に近く、ランプの芯が燃える音すら聞こえそうな静寂の中だというのに、だ。更に言えば、ここはまさしく大日本帝国
東宮御所、その中でも警備が最も厳重なはずの皇太子の居室。
侵入者など、あってはならない。
「…何者だ」
「私は菊と申します。天皇陛下のご内意を受けて、参りました」
「そなたが?」
確かに少年は父である天皇からその
旨の
言伝を受けていた。三日前、公務で
天皇御所を訪れた際に、父の
側仕えの者から直筆の文を渡されたのだ。
曰く、菊という者が数日中にお前を訪ねるはずである。その者の話を聞いてやってほしい、と。
自分も顔を見知っている父の側仕えから文を直接手渡され、その文の中には天皇家の象徴と言える『菊』を名に頂く者が皇太子である自分を訪ねるという。
一体どんな人物が来るのかと思っていたところに先の登場だ。不気味さばかりが増していた。
「確かに、菊という名の者が訪ねてくるとお教え頂いている。その者の話を聞いてやってほしい、とも」
「はい、本日は私のことをお話しする為に参りました。少々込み入った話になりますので、どうぞお気を楽になさって下さい」
青年はそう言って、少年の傍らにある執務椅子を身振りで勧めた。
少年は微かに目を細めた。青年に主導権を握られている状況が気に入らなかった。先程など、まるで彼の方が部屋の主であるかのような口振りだ。そして更に不可解なのが、そのような状況をきちんと意識しなければ彼の言葉に流されてしまいそうなことだった。知らず手に力が入り、握り拳を作っていた。
動かぬ少年に、青年が不意に笑みを零した。
「…そのように警戒されずとも、何も致しませんよ。貴方は意思の強い方ですね。私を警戒し続けるのは大変でしょうに」
それは存外柔らかなもので、少年はひとつ瞬きをした。それまでの青年は表情に乏しく、丁寧だが冷たいばかりの印象だったのだ。
少年は
逡巡した後、部屋の一角を占める応接セットを示した。
「込み入った話になるのならば、あちらで聞こう」
今度は少年が椅子を勧めた。それでは失礼して、と一礼してソファに座った青年の対面に、少年も腰掛ける。その流れを失わない内にと思い、それで、と青年に話を
促した。
「私の話の前に、まずはお祝いを。
此度は立太子の儀を無事に終えられましたこと、心よりお喜び申し上げます。大変素晴らしい儀式でした」
「準備に
奔走してくれた者達のおかげだ。彼らへの
賛辞、有り難く
頂戴しよう」
礼儀に
則りきっちりと頭を下げるのに、こちらも返礼をする。
顔を上げると、青年は苦笑のようなものを浮かべていた。
「律儀な方ですね。えー…では早速本題移らせて頂きます。まあ私のこと、と申しましても大したことではないのですが。
先程、菊と名乗りましたが、これは私の本当の名ではありません。そして人の姿を
模してはいますが、人間でもありません。私は大日本帝国、この国そのものです」
些か軽い調子の予想だにしなかった言葉に、さすがに少年の表情が固まる。
「私はこの国という組織であり、民であり、領土なのです。戦で大地が傷つけばこの身にも傷が出来、民の感情が一定の方向へ動けば私もまた影響を受けます。国が
具象化した存在…とでも申しますか。私はそういったものなのです。理屈は考えないで下さい。私にもご説明出来ませんから」
「…出来ないのか?」
反射で口にした問いには、薄い笑みが返された。
滲んだのは
諦めか
自嘲か。
「私自身はただ在るだけですから。貴方が自分が何者なのか分からないのや、人体についての研究がまだ完璧ではないのと同じです。私達の場合は、そもそも研究することも出来ないでしょうね。絶対数が少なく、過去の記録も無い。存在が
曖昧なんです」
聞けば聞くほど、少年が先程まで見ていた世界とは別の次元の話だ。すぐに理解が追いつくはずのないその話を、それでも真剣な面持ちでじっと聞く。
そんな少年の様子にか、青年はふと表情を和らげた。軽く息を吐いて立ち上がる。
「続きをお話しする前に一息つきましょうか。お茶を頼んできます」
素直に頷きかけて、少年は再び慌てた。青年が衛兵と顔を合わせても問題がないのか判断がつかなかったからだ。
入室時の様子を
鑑みて、彼が正規の手順を踏んでこの部屋へ来たとは到底思えない。そんな人物が皇太子の部屋からいきなり出て来て茶を頼んで、騒ぎにならないはずがない。だから先程青年にソファを勧めた時も茶を頼まなかったのだ。
慌てるあまり、立った拍子にソファがガタンと大きな音を立てた。その音に青年が足を止めて振り返る。
「殿下?」
「だ、大丈夫なのか?」
「何がですか?」
「その…衛兵と顔を合わせて」
それでようやく少年が何を
懸念しているのかが伝わったらしく、青年は傾げていた首を戻して納得の声をこぼした。そして、大丈夫ですよの一言と笑顔を残して、さっさと扉を開けた。
ハラハラしながら見守ったが、会話や様子におかしなところは何もなかった。青年はごく普通に声を掛け、衛兵の方も客人に対するように応えていた。
気が抜けて、それでもどうにか平静を装って座り直す。今の行動で自分がどれだけ動揺しているのかが知れた。相手の存在を理解仕切れていないことが気持ち悪い。
青年もソファに戻り再び座る。その動きの中に紛れ込ませるように、少年はぽつりと呟いた。
「大丈夫でなければ、そなたが自分で動くわけが無いな…」
「すみません、驚かせてしまったようですね。何と言いますか、私は人々にとっては隣人のようなものなのです。顔を合わせても顔見知りのような親近感を持たせることが出来ます。自分の『国』ですからね、会えば近しく感じるんです。けれど普通の人々にとっては私の存在は大き過ぎて
把握することが出来ず、私が誰なのかを理解することや、記憶しておくことが難しい」
彼は一度言葉を切り、ふわりと表情を
綻ばせた。
「先程殿下が私に警戒心を持ち続けようとなさったことを、意志が強い、と申し上げたのはそういうことです。自然に持つはずの親近感を抑え、状況を冷静に判断して警戒しなければいけないのだと自制しておられた。滅多に出来ることではありません。さすが、これからの我が国を導いていくお方です。陛下のお見立て通りですね」
さらりと付け加えられた一言に少年は目を細めるが、ひとまず聞くべきことを優先させた。
「では私がそなたに対して警戒心を持てたことや、今こうして話せているのは何故だ」
「それは貴方が国を、ひいては『私』を把握し導く意志をお持ちだからです。皇族でも大臣でも一国民でも、ただ『私』の内に在るのではなく、『私』全体を見渡す視野とその気概を持つ者のみが、私を認識し得るのです。
正直申し上げますと、私はまだ殿下にお会いするつもりはありませんでした。殿下は正式に立太子の儀を終えられたとは言え、御歳15とまだお若い。素質はお持ちでも、まだ早いと思っておりました。それを本日お訪ねしたのは陛下のお言葉があったからです。陛下が、貴方ならば大丈夫だからと仰って」
青年の言葉に、少年は僅かに頬を染める。統治者として己を律するよう指導されてきた彼には珍しいことだった。疑う隙もなく彼の言葉を受け止め反応してしまう、そのことにも青年の特異性を見るようで、更に言葉が出ない。
けれど続く青年の言葉に、頬の赤みは引き、目が
眇められた。
「きっと私と貴方は長い付き合いになるだろうから、早く会っておくに超したことはない、とも。私のような存在を長じてから知るのは心臓に悪い、未だに慣れない、と言われてしまいました。若い方の方が順応性があるのは確かですが、心臓に悪いとは、酷い言われようですよね」
「今の私にでも充分に心臓に悪かったがな」
苦笑交じりの青年の言葉に返した反応は虚ろと分かるものだったが、青年は何も言わなかった。
気遣われたことに何かを思う余裕もない。こんなところでも父の不調を知らされるのは辛かった。
若い頃から病気がちだった
今上帝の治世は恐らくあまり長くない。皇太子時代には安定していた体調も、天皇としての激務が影を落としている。
不吉な予感を振り払うように一度首を振った。折り良く先刻頼んだ茶が運ばれてきて、少年は早速器を傾けて喉を潤す。運んできたのは御所に長年勤める側仕えの者だったが、やはり青年を不審に思う様子はなかった。
中身を半分ほど飲んだところで器を戻した。青年の存在も大分分かってきた。では父の促したこの
邂逅には一体どのような意味があるというのか。
「そなたは陛下と自由にお会いすることが出来るのか」
「国内でしたら私に行けない場所はありませんよ。
仮令北の果てでも、陛下のお部屋でも」
「それで、そなたは何をしているのだ?」
「特には何も。お話し相手になっているだけです。私と話せる方々には愚痴もなかなか零せない方が多いですから、その辺りの需要が多いですかね。あとは、こもっていては聞こえてこない国民の声をお尋ねになる方もいらっしゃいますよ」
「成程…。
分かった。陛下のお心遣い、確かにお受けした。陛下にもそのようにお伝えして欲しい」
少年がソファから立ち上がったのを合図に、青年も腰を上げ一礼する。
「承りました。それでは殿下、これからどうぞお見知りおきを。もし御用がございましたら、名を呼んで頂ければ参りますので」
「菊、と呼べばいいのか」
「はい、そうして頂ければ、本日こちらに伺ったように
馳せ参じます」
言われて思い出した第一印象の心臓の悪さに、少年が思わず眉を寄せれば、青年は遠慮なくくすくすと笑い声を零した。少年は口許まで歪みそうになるのを
堪えて右手を差し出す。
「こちらこそ、これから宜しく頼む。…陛下のことも」
「はい」
そうして握り返された手の平が、硬く温かったのを覚えている。
不意に意識が浮上して、彼はゆっくりと数度瞬きを繰り返した。
随分昔のことを夢に見ていた。過ぎ去った年月を数えてみると七〇年以上だ。自分にとっても、そして相手にとってもきっと珍しい程に長い付き合いだと言えるのではないだろうか。
その長い時間の中で世界は変化し続けた。激変と呼べるような大きな動きも幾つかあった。そして世界の動きから逃れ得るはずもなく、自分も彼も随分と変わった。変わらざるを得なかった。変わらなければ世界から置いていかれるか、消されるか。そんなことは自分達には許されない。
「陛下」
夢で聞いたのと同じ声に呼ばれ、
目蓋を持ち上げた。こちらを覗き込む青年の姿形は夢の中とほぼ変わらない。いや、眼差しや声音があの頃よりも柔らかくなっただろうか。最近はスーツを身に付けていることが多かったのに、今日は和装で、それがまた随分と懐かしさを覚えさせる。
「昔の夢を見たよ。君と始めて会った時の夢を」
「それはまた…本当に昔ですね。懐かしい」
そう言って細められる穏やかな光を
湛えた黒の双眸や、青年の膨大な記憶の海の中にも残っていた自分との思い出が眩しくて、彼は一つ大きく息を吐いた。
あの握手の後、青年は扉に向かったかと思うと開けるのではなく、そこに溶け込むようにして姿を消し、彼の度肝を抜いていった。そんなことも今では良い思い出だ。
ふと彼は、自分が目覚めたのに青年以外の声が聞こえてこないことを疑問に思った。重い首を
廻らせてみると、周囲の他の者達は眠っていた。恐らくは青年の仕業だろう、常ならば考えられない。青年をちらりと見遣るが素知らぬ顔だ。眠らされた者には申し訳なかったが、何の気兼ねも無く青年と話せる状況は嬉しかった。
どうしても伝えたいことがあった。
「菊」
「はい」
応える青年は変わらず柔らかい。その眼差しが、分かっていますよ、と言っているような気がするのは自分の勝手な願いだろうか。
どちらにしろ言葉は止まらない。自分がこの世に残せる、あと僅かなもの。
一体どれほどの人がこの言葉を口にし、彼は幾度この言葉を聞かされただろう。そこにあった思いはきっといつの時代も変わらない。それらが彼の中で幾層にも積み重なっているだろうと分かっていながらも、言わずにはいられなかった。
「菊、この国を、頼む」
「はい。この身が消える、その時まで」
「すまない。ありがとう…」
「いいえ、陛下。私の方こそ感謝を。貴方と共に過ごせた時間は、とても楽しかった。今までお疲れ様でした。またいつか、別の形でお会い出来ることを願っています」
声は耳に心地良く、いつの間にか彼は再び眠りに落ちていた。今生で青年に会うことはもう無いだろう。
輪廻の輪に乗って再びこの世に生まれ落ちた時か、青年があの世へ来た時か。
再会の形は分からないけれど、それでももう一度会えることを
希った。
了
とても趣味に走った殿下と菊ちゃんの話でした。固有名詞は一切出しておりませんが、殿下(陛下)は先代さまです。
さあ、これをAPHモノと言い張っていいものか。
そもそもの発端は、ペラい本で読んだ太平洋戦争関連の米日(?)話でした。そこに陛下が関わってまして、菊ちゃんがすごく陛下のことを大切にしてて、大変萌えました。主従好きには堪りませんでした。
そこに「為政者にしか見えない菊」というネタが絡んでこうなりました。
でも正直書くのは怖かったです。先代さまとは言え、お上を題材にしてますから。相当捏造も入ってますし。
なので固有名詞回避と検索避けで対処させて頂きました。地の文がかなり読み難いかと思いますが、ご了承下さい。敬語も相当おかしいと思いますがごめんなさい。使い慣れない言葉はワケ分かりませんね!
大変だったけど面白かったです。お粗末さまでした。
(2009/05/30 UP)
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