*読み難そうな漢字には、オンマウスで読みが出るようにしてあります。*

044: 老いた人

王子=ルーファン








 秋晴れの、爽やかな午後だった。
 太陽の加護と雄大な大河の恵みを受けるファレナ女王国、その象徴である壮麗な太陽宮の片隅で、一人の幼子が遊んでいた。庭の茂みで、柔らかな銀の髪に枝葉を絡め、色白の可愛らしい顔に引っかき傷をつくり。時折枝に髪を引っ張られて小さな口をツンと尖らせる。ようやく茂みから抜け出して、子供はほうっと息を吐いた。
 柔らかな太陽の光を浴びて鮮やかな青色を返した瞳は、しかしすぐに影を映した。目の前に音も無く人が立ったのだ。
「こんなところで何をしておられるのですか? ルーファン様。ここは女王陛下の庭ですよ」
「へいか、の、おにわ?」
 子供は影を見上げ、仰け反った喉でたどたどしく言葉を辿る。そうです、と影は律儀に頷いて見せた。
 ルーファン・ファレナス。それが子供の名だった。ファレナの宝玉と名高いアルシュタート姫の第一子。ファレナ女王家の端に名を連ねる…男児。
 ルーファンは首を傾げ、茂みを振り返り、間違えちゃったと呟いた。
「ごめんなさい。おへやにもどるつもりだったの」
 がさがさと茂みの中に戻ろうとする子供を止めて、影は膝をついて目線を合わせた。影は中肉中背の男だった。着込んだ鎧が光を反射して黒く光る。
「ルーファン様。護衛はどうなされました? 今の時間は確かガレオン殿が任に当たっておりましたな」
「ガレオンはおっきくて、はっぱのなかにはいってこれなかったの。あっちにいるよ。…ガレオン、おこられちゃうの? ぼくがかってにへいかのおにわにはいったから?」
 小さな顔を精一杯しかめる幼子に男が答えようとした時、カタリと戸の開く音がした。衣擦れの音と人の気配に男は振り返る。
「ディグン、誰ぞ居るのか?」
「女王陛下」
 その呼称にルーファンはびくりと身を固くした。
 男がさっと茂み近くから歩み出て礼を取る。
「ルーファン様がいらっしゃっておられます。隣の庭から迷い込まれたようです」
「ルーファン?」
 草を踏む音が続き、女王の姿が茂みの陰にいるルーファンからも見える場所まで近寄ってきた。丁寧に結われた髪は白に近い銀色で、太陽を象った王冠をその上に乗せている。赤色の紋様の入った白い上衣とフェイタス河のような青色の長裙の対比が美しい。普段はそれらを覇気と共に纏っている女王も、今は私室の庭にいる所為か、幾分雰囲気が柔らかいようだった。齢六十を越えて尚を感じさせる容貌には疲れが滲んでみえた。
 現女王オルハゼータは、ルーファンにとってとても遠い存在だ。生まれてこの方数える程しか会ったことはなく、それもほとんど公式の場だったのでに言葉を交わしたことは無いに等しい。彼女は女王の座をめぐって醜い争いを始めた己の娘達を厭って、王族の住処近くに足を運んでいない。だからルーファンの知る彼女は厳格で威厳に満ちていて近寄り難かった。
「…あぁ、アルシュタートの子だね。もうそれほどに大きくなっておったか」
 目の前に立った女王をルーファンは大きな目を更に見開いて見上げ、ひゅっと息を吸い込んでぎこちない動作で頭を下げた。
「おひさしぶりです、へいか。かってに、おにわにおじゃまして、ごめんなさい」
「構わぬよ。ファルズラームに何ぞ吹き込まれてきたのでもあるまい。きっとアルシュタートが心配しておる。早うお戻り」
 祖母の名を聞き、ルーファンは再びびくりと身体を震わせる。女王はそれを見て取って幼子に手を伸ばした。頭を撫でる手の感触にルーファンは驚いて顔を上げる。手はやんわりと滑って離れていった。
「哀れな子だね。母者の言うことをよくお聞き。あれは優しく賢い子だ。のような愚かなことはしまいよ」
 陛下、と咎めと気遣いの声音で呼び掛けたディグンを振り返り、ルーファンを送り届けるよう女王は言う。ディグンは戸の側にいたもう一人の女王騎士に一度目を向け、それからルーファンに向き直った。
「さあ参りましょう、ルーファン様。きっとガレオン殿が困っておりますよ」
 どうぞ、と屋内へと促す。ルーファンはそちらへ歩きながら女王の姿を目で追った。彼女は四阿に入り、こちらに背を向けて河を眺めているようだった。長い間この国を見続けてきた深い青色の双眸に、この国の象徴とも言える雄大なフェイタス河の流れを映しているのだろうか。
 何故だか小さく見えたその背中を、ルーファンはじっと目に焼き付けた。




  了


 王子と、曾祖母に当たるオルハゼータ女王の邂逅。
 王子は4歳、オルハゼータは60〜65歳です。おそらく公務以外では最初で最後の個人的な関わり。女王はこの少し後に崩御します。そんな時間設定。
 補足としては、ファルズラーム(アルシュタートの母、オルハゼータの娘)は自分の王位継承権を主張して強行したアルシュタートの闘神祭の末に生まれた王子を厭っています。闘神祭では婿に貴族を迎えることで更なる後ろ盾を得ようとしたのに失敗し、その上生まれたのは後継となれない男児。
 王子は更に、ファルズラーム側の貴族にも同じ理由で厭われ、だからと言ってシュスレワール側の貴族に歓迎されるわけでもなく。味方はまさに身内だけ、な状況。
 とかいう妄想の果てに生まれた今回の小話。楽しい。

(2006/08/26 UP)

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