君の髪に口付けを
シャワーの熱い湯を頭から浴びながら、兵助は以前言い聞かされた言葉を
反芻する。
――髪を洗う時は、まず頭全体を洗い流すこと。二、三分掛けて、頭皮までしっかりとね。これで汚れのほとんどは落とせちゃうから。
言葉に従って髪全体に湯を
馴染ませ、マッサージするように頭皮を軽く
揉む。別段、反芻せずとも既に馴染んだ作業なのだが、髪を洗う時の癖になっているのだ。
さて次は、と壁際の棚に並べられたボトルに手を伸ばす。使うのは、見慣れた字で大きく『兵助くんの!』と書かれた白いものだ。自分の物に名前を書かれるなどまるで小学生のようだが、自業自得なので仕方が無い。それぞれの髪質に合わせたシャンプーとコンディショナーをタカ丸が買ってきたのに、兵助がちゃんと覚えずに何度も相手のを使ってしまい、その対策として取られたのがこれだった。多少の腹立ちが過ぎてしまえば、分かり易いな、の一語に尽きた。
――シャンプーは一度手の上でよく泡立ててから付けてね。
手の平に出した液に、水を含ませ泡立てる。それを髪に移し、更に泡立てていく。
――シャンプー付けてからも、綺麗にするのは頭皮だよ。爪は立てずに指先で。
指先指先、と胸中で呟きながらわしわしと手を動かす。
――こめかみとか
襟足も洗うの忘れないでね!
はいはい、と過去の声にいい加減な返事をして、前髪、もみあげ、耳の後ろ、襟足と生え際の辺りにも手を伸ばしていく。
一通り洗い終え、兵助は一度止めていたシャワーのコックを再び
捻った。これも時間を掛けて泡をしっかりと洗い流す。
――コンディショナーは逆に頭皮に付けないように気を付けてね。毛先を中心によく馴染ませて。
棚から、やはり自分の名の書かれた灰色のボトルを取る。手の平に出した液を少しずつ掬って髪に広げていく。
その作業を終えると兵助は息をついた。すぐに洗い流さず数分置くように言われているので、いつもその間に身体を洗うことにしている。
身体を洗い、髪を濯いで、ようやく湯船に浸かる。恋人の数少ない拘りに付き合うのもなかなか大変だが、自分にメリットがないわけではないので、どうにかなっているのだろうと思う。
身体を充分に暖めて風呂から出ると、座卓で雑誌を読んでいたタカ丸が顔を上げた。雑誌を座卓の向こう側に押し遣り、テレビを点けて適当なチャンネルに回す。部屋の隅に立て掛けてあった簡易椅子を引っ張り出し、
「兵助くん」
ふわり笑って手招いた。
兵助は洗面所から持ってきた櫛とドライヤー、タオルを渡して、タカ丸の出した椅子に座る。
「今日もお疲れさま」
「うん」
ドライヤーのスイッチが入れられ、ゆっくりと移動しながら髪に温風を吹きつけていく。自宅ということで、水分を全て飛ばすのではなくタオルに吸い取らせる。大体乾いたら櫛を使ってブローだ。
さすが本職というのか、タカ丸の手付きに淀みはなく、やんわりと的確に髪に触れる。その感触が心地良くて、兵助はそのふわふわとした感覚に身を委ねる。タカ丸が鼻歌混じりに機嫌良く手を動かしいるのもまた、兵助の心地良さを増していた。髪の洗い方を教えられた最初の頃や、疲れていて手を抜いた時はこうはいかないからだ。
別段、ブローをしてくれないわけではない。いつも変わらず丁寧にやってくれる。疲れている時など労るように優しい。それでも、嬉しそう、というわけではない。それが兵助には少し悔しく、きちんと手順を守る理由の一つになっていた。
小さな達成感に笑みを零した兵助に気付いて、タカ丸が何?と訊いた。
「何か嬉しそうだね」
「タカ丸さんの手、気持ちいいから」
「ありがとう」
何度目かの兵助からの賛辞にくすぐったそうに笑う。兵助は今までにもその事を伝えていたし、心地良さの余りブローしてもらっている間に寝てしまったことも幾度かある。
髪全体に満遍なく風と櫛が当てられ、テレビからの小さな騒音とドライヤーの稼動音だけが暫し部屋に満ちる。十分程が経った頃、
「よし、これくらいかな」
タカ丸は満足げに独り頷き、ドライヤーと櫛を置いた。兵助の後ろを離れ、洗面所からトリートメント剤を取ってくる。これは二、三種類買ってある中から髪の状態に合わせてタカ丸が使い分けている。今日は一番よく使う薄い緑色のボトルのようだ。手の平に広げて毛先にさっと馴染ませていく。
仕上がりを確かめるように髪全体に軽く触れ、タカ丸はにこりと笑んだ。
「はい、終わったよー」
「ん。ありがと」
「どういたしまして」
終わり、と言った割にタカ丸の手は兵助の髪から離れず、毛先に指を絡めては緩く引っ張る。
「タカ丸さん?」
兵助が椅子に座ったまま見上げるように振り返れば、細められた目元が見えた。
「兵助くん、シャンプー上手になったね」
「そうなのか? ふーん、俺にはよく分からないけど」
「うん、上手になったよ。ブローの仕上がりが違うからよく分かる」
「もう三ヶ月は経ったからな。それだけやってれば慣れるよな」
髪の洗い方を教えられたのは二人で共に暮らし始めた当初のことで、兵助が髪を洗うペースは二日に一度なので、もう四、五十回はやった計算になる。
過ぎた月日を指折り数えていた兵助を、タカ丸が後ろから抱きすくめた。
「いつも俺の我が侭に付き合ってくれてありがとう、兵助くん」
「別にこれくらい良いけど。いつも乾かしてくれるし」
「手間掛かるでしょ。シャンプーもちゃんと俺が言ったの使ってくれてるし」
ぎゅーっと抱き締められながら、兵助はうーんと考える。タカ丸の柔らかな髪が首筋に当たってこそばゆい。
「あのさ、タカ丸さん」
肩口に顔を埋める相手の髪を引っ張れば、頭が動いて至近距離で視線がかち合った。
「それは持ちつ持たれつ、だよ。俺だってタカ丸さんにやってもらってることいっぱいあるから。でもさ、あれをやってもらってる、これをやってあげてる、とかのプラマイ計算じゃなくて、お互いにバランス取って生活出来ればいいんじゃないか。二人で暮らしてるんだからさ」
な?と兵助は確認するように小首を傾げる。タカ丸は一度二度瞬き、それからへにゃりと笑み崩れた。他人が目撃したら引きそうなほど幸せに満ちたそれも、見るのが兵助だけなので、小さな笑みが返されるだけで終わる。
「そうだね、兵助くん。二人でバランス見つけて、幸せになれればいいんだよね」
「そうそう」
タカ丸があまりに嬉しそうで可愛くてキスをしたら、深く返されて息を乱す。舌を絡め、歯列をなぞられ、唇の端をぺろりと舐められる。再び近付けられる顔を押し止めて、腰を撫でる手をはたいて退ければ、不満の声が上がった。
「明日提出のレポート、まだ終わってないんだよ」
「えー兵助くーん」
「ダメ。あんたも早く風呂入らないと近所迷惑になるぞ」
兵助はタカ丸の腕の中から抜け出て、ドライヤーなどの一式を洗面所へ片付けに行く。リビングに戻ると、タカ丸は諦めたのかのろのろと椅子を片付け、床にコロコロを掛けていた。奥の部屋で鞄と本棚から必要な資料を拾い上げていると、今度は風呂を使う音が聞こえ出した。
兵助は座卓でノートパソコンを立ち上げ、書きかけのレポートのデータを呼び出す。文章はほとんど書き終えていて、あとは放課後に見つけてきた資料を加えて手直しするだけだ。途中、考え込んで掻き上げた髪から柔らかな感触が返ってきて、兵助は苦笑を零した。
了
らほさんがイラスト描いて下さいました!
兵助くんはタカ丸さんからシャンプー指導を受けてるよね。んで結構律儀にそれを守ってくれたりしちゃうんだよね。
というようなことを友人たちが喋ってまして、その妄想を受信させて頂きました。前半の魅惑(?)のシャワーシーンは大体それに従って書かせてもらってます。
後半、トリートメントした後はタカ丸さんの暴走です…。
その暴走をラストで兵助くんに止められてますが、友人がお風呂とレポートが終わったあとに続きをさせてもらってるんだね!と言って下さったのでそういう方向で。私が扱いかねて(本筋から逸れて戻れなくなりそうだったので)ストップかけたのを、救ってもらいました。良かったね、タカ丸さん!
(2009/10/29 UP)
シャンプー妄想主の一人、らほさんがイラスト描いて下さいました!
すんごく可愛いですよー!
(2009/11/05 UP)
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