*読み難そうな漢字には、オンマウスで読みが出るようにしてあります。*

042: 名前

坊=セオ 2主=カイ





「セオってさ」
 タンッ、と小気味良い音を立てて、的の中心から手の平程離れた場所を矢が射抜いた。
「貴族っぽくない名前だよな」
「…とりあえず真意を聞こうか」
 滑らかに作業を続けながらセオは口の端を釣り上げた。手の中の愛用の棍をきゅっと力を込めて磨き上げる。
「別に真意なんて無いさ。ただの素朴な感想ってやつだよ」
 テッドは弓弦を引っ張ったり色々な角度から見たりし、ぐっと弦の張りを確かめて、矢をもう一度番えて引き絞った
「貴族の名前ってのは、もっと気取った感じのを付けるもんじゃないのか」
「ミルイヒ・オッペンハイマーとか?」
「そうそう。それとかえーっと…シュトルテハイム・ラインバッハとか」
 タンッと再び音が響く。
 耳慣れない名にセオはテッドを見た。
「ラインバッハ…? 聞き覚えの無い名前だね。どこの国の人?」
 セオは国内の主だった貴族の名は勿論の事、近隣諸国の貴族の名も幾つか記憶している。名はともかく、姓にも聞き覚えが無いのは気になった。尤も、テッドは様々な国を旅してきたらしいのでセオが知らない貴族の名を知っていても不思議は無いのだが。
 子供っぽい嫉妬心を自覚しながら訊ねたのに返ったのは、考え込む時特有の呻き声だった。
「うーん…忘れた。音をパッと思い出しただけだからなぁ」
 それでも気になるのか、テッドは視線を上方に彷徨わせて記憶を探っている。うーん、と確認するように首を捻ってから、
「やっぱ忘れた」
 諦めたらしい。
 それに代わるように、今度はセオが首を傾げる。
「シュテルト…?」
「シュトルテハイム・ラインバッハ確か2世」
「確かって」
「繋がる音の感じからすると、多分な。ニセイとか続けて言ってた気がする」
 首の傾きの角度を少し深めて、セオは曖昧相槌を打つ。
「うん、まぁ…印象深い名前だね。で、僕の名前もそういう長くて威張ってそうなのじゃないと可笑しいって言いたいの?」
「別に。呼び易くて良いぜ」
「付けて下さったのは父上なんだけど」
「うん、テオ様好きだぜ」
「…そう」
 セオは何だか脱力した。棍を磨く手は力を無くし上下する幅が狭くなった。
 三度、矢が的を射抜いた。ほぼ正確に、一本目の線対称の位置に。
「だから言ったろ、素朴な感想だって」
 テッドはにやりと笑って弓弦を鳴らした。


       *   *   *


 懐かしい名を聞いた。それも同盟軍軍主カイの口からだ。
「ラインバッハ?」
 思わず声を上げたセオに、カイが照れたように頭を掻く。隣で彼の義姉のナナミもおかしそうにくすくすと笑う。
「そう、面白い名前でしょ? フリックさんの知り合いが使ってたらしいんですよ」
「僕だよ」
 えっ、と二人が目を丸くする。同じテーブルで共に午後のお茶を飲んでいたクラウスも少し驚いた様子で顔を上げた。
「僕が解放軍に居た頃に使っていたんだ」
 言いながら、セオはその名を初めて使った時の事を思い出す。
 オデッサを失い、アールスの地からも離れなければいけなくなったあの時。ウィンディに囚われたままのテッドをどうすることも出来ずにいる事がじりじりと胸に迫っていた。しかしそれを表には出せず、焦燥感と思い出だけが頭を回る中で拾い出したのは何故かあの名前だった。アイン・ジード相手に誤魔化しは通用しないだろうと自棄のように使い、その後も固執するように何度か冗談のように口にした。フリックはそれを覚えていたようだ。
「セオさん、だったんですか?」
「そうだよ。と言っても僕も親友から聞いた名前を使っただけなんだ。2、3回言っただけなのによく覚えていたな。…どうかしたかい?」
 微妙な表情で顔を見合わせている姉弟に、セオは首を傾げる。
「えっと、何か…意外だなぁって思って。セオさんが使ったとは思わなくって」
「使ったんだよ」
 セオの苦笑に二人は慌てて謝った。特別視されることを嫌っているのを知っていたからだ。取り繕うようにナナミが笑う。
「インパクト強い名前ですよね」
「そうだね。だから僕も覚えてたんだ」
「セオさんは親友さんから聞いたんですよね」
「そう。彼が旅の途中に聞いた名前だったそうだよ」
 今まで静かに記憶を探っていたらしいクラウスも口を開いた。
「聞いたことのない家名ですね。大陸北方の音では無いように思えます。南の群島諸国かファレナ女王国の辺りでしょうか」
「あぁ…そうかもしれない。いつか行った時に探してみようか」
 面白そうだと思い呟くように言った思いつきに、出来れば結果をお教え願えますかとクラウスが言った。それは純粋な知的好奇心からの言葉のようで、彼は知識を増やす事が大好きな類の人間らしい。セオは快く是と答えた。ありがとうございます、お願いします、と頼む彼の声音は普段より柔らかな印象だった。空いた器にこぽりと茶が足される。
 静かな高揚感が込み上げてきて、セオは楽しげに笑った。
 テッドが三百年の旅の途中に世界のどこかで聞いた名前が、セオを通して、知らぬ間にこんなところにまで伝わっている。こんなところで顔を出す。そして更なる広がりを見せようとしている。
「おかしなものだね」
「面白いですね!」
 きっと想像の中で世界が広がったのだろう、ナナミの声も軽やかに弾んだ。カイもそんな姉に嬉しそうに顔を緩める。
 セオはそんな彼らを見守っていたが、吹き下りた風に誘われて空を仰いだ。白い雲が浮かぶ合間に、昼の月が滲むように沈んでいる。



 テッド。世界は巡り続けているようだよ。




  了


「本人達普通に真面目に話してるっぽいけど、この名前ってさぁ…(苦笑)」とでも何でも、笑って頂ければ成功。そんなことを目指した話。
 そういえば、坊っさんが偽名を使い出したって書きましたが実際にはビクトールが先に名乗りを上げてますので、「砦の手前で、ビクトールが偽名を考えておくように言った」→「坊っさんが『シュトルテハイム・ラインバッハとか?』みたいに言ってみた」→「ビクトールが面白がって使った」て感じな流れってことにしておいて下さい。
 ちなみにビクではなくフリック氏から伝わってるのは、ビクがそんな些細なことを覚えてるはずがないと思ったからです。フリックはこういう妙なことを覚えてそう(笑)。

 ついでにセットで「010: うたがい」も読んでみて頂けると嬉しいです。何でテッドが名前のことなんか言い出したかの理由っつか変に気にしたワケ。

(2006/05/17 UP)

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